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執筆者の写真NOBUSE NOBUYO

喪主をやったはなし(前編)

5月上旬、祖母があの世へ行った。享年91歳。70過ぎでくも膜下出血をやり、一命はとりとめたものの言葉が出なくなりほどなくしてぼけた。しばらく姉が自宅で面倒を見ていたが、ある時こけたか何かで寝たきりになり市の特別養護老人ホームに入ることになった。それから私が会いに行ったのは10数年の間にたった3、4回ほど。最初のうちは私の顔がわかるようだったが、最後の方はもう私の向こうの何かを見ていた。


はっきり言って、祖母への思いには複雑なものがある。私の家は共働きで、両親それぞれが親を田舎から呼び寄せて愛知に3世帯住宅を構えたのだが、それがそもそも地獄の始まりだった。婚姻によって親戚関係となったとはいえ生まれも育ちも異なる他人同士、いきなり同じ家に住み始めて上手く行くはずがない。加えてそれぞれ輪をかけてアクが強い人たちだった。


家族それぞれの話は結構面白いのでまた時を改めて書けたらなと思う。その当時は死ぬほど大変でも、後から振り返ったら笑えてきたりするものだ。笑ってしまいたい、という方がより正しいかもしれない。


ただし、母は実際死んでしまった。50歳のとき、乳がんに侵されて。強烈で騒々しく、時に陰湿な人間関係の絡み合いのなかで、責任感の強い母がどれだけの重荷を背負っていたかは想像に難くない。


我が家の人間模様を語るとそれだけで一冊分くらいになりそうなので、ここでは当時、家に誰が住んでいたかを列挙するに留めよう。

両親、兄、姉、私、父方の祖父母、母方の祖父母、父の弟(本当は父の従兄弟)、母の姉(父親違い)、総勢11人。ここに加えて時期によって従兄弟やおじ夫婦などが住み込んでいたり、パニック障害になった叔母の代わりに赤ん坊を預かっていた時期もあった。なんとなく大変そうな雰囲気だけは、察していただけるのではないかと思う。


この混乱を助長した大きな原因の一つが、孫の取り合い合戦だ。第二子であった姉は、戸籍上は母方の祖父母の養子となり、母方の苗字をつけられた。そのため姉は母方の祖父母に、兄と私は父方の祖父母に可愛がられ、育てられるといういびつな図式ができあがった。母方の祖父母はけっこう平等にかわいがってくれたと思うが、父方の方はそうでもなく、特に祖母は事あるごとに姉を邪険にした。邪険にされる方、えこひいきされる方。知らなくてよかった妬み嫉みを幼少期の全生活において味わった私達兄妹は、それぞれ暗い傷を大人になった今でも抱えている。


今回亡くなったのは、姉を邪険にし、兄と私をえこひいきした祖母である。ちなみに他の祖父母たちは、全員既に他界している。祖母がなんというか、最後の砦だったのだ。

この祖母は生命力が異常に強く、今まで何度も「覚悟してください」と医師に宣告されるも死の淵から這い上がってきて「ばあちゃん並みに不死身」というミームが我が家でできあがるほどだったから今回もそうなるのではと内心思っていたのだが、亡くなる3週間ほど前に様子を見に行ったとき、今回は本当にもう最後だと思った。瞳を覗き込んだ時、もうそこにいないのがわかったのだ。元々ぼけてはいたのだが、いない、と感じたのは初めてだった。その日の夜、祖母が地下へと続く暗い螺旋階段を下っていく夢を見た。あちらへ去ろうとしている命を、無理に引き留めることはしてはいけないのだと理由もなく悟った。

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