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その後は葬儀屋や身内に連絡したりなど、淡々とやるべきことを進めていった。

葬儀屋が迎えに来るまでの時間に、病院の方が「一緒に死化粧をしませんか」と声をかけてくれた。下地を塗り、ファンデーションをはたいていくうちに祖母の顔がみるみる若返りああこんな顔してたんだ、と思った。写真でしか見たことのない曾祖父に似ていると思った。生きている時はなんと多くのもので表情は覆われているのだろう。その多くのものによって、どれだけ物体としての真の形質が隠されているのだろう。でも、その「顔を覆う多くのもの」こそ、生きていることそのものの印なのかもしれないと思った。



病院に来た時から、喪主は自分がやろうと決めていた。

こういうのは祖母の子供、つまり私の父がやるのが一般的だと思うのだが、父には無理だろうと思っていた。本当に絵に描いたようなダメ父なのだ。感情に圧倒されて自分が制御できないタイプだし、読み書きが苦手なので手続きとかそういう事柄が一切できない。(母の葬儀のときも喪主は兄がやってくれて、父は一人で泣き崩れて周囲の同情を買っていた。泣きたいのはこっちだっつーのと子供たちはしらけていた。)

やってやるのも癪ではあるが、やらせたらやらせたで結局全部聞いてきて面倒この上ないことが容易に予想できた。兄は心やさしく疲れていたし、姉はさすがに可哀想で私もやらせたくなかった。だからまあ私だろうと思ったのだ。それにこういうことを嫌がらずにやると後々「あのときやってくれたしね」と融通が効くかもなという打算もなくはなかった。



葬儀はカトリックの教会で親族だけで行った。いわゆる家族葬というやつだ。

我が家は父と姉夫婦がカトリック信者で、私と兄は特定の宗教を信仰する立場ではないが、キリスト教式の葬儀の方が好きなので今回もそうさせていただいた。もちろん、前もって祖母も洗礼を授けていただけていたからできることだ。

どうしてキリスト教の式が好きかというと、心の負担が少ないことが一番の理由だ。なぜ負担が少ないのかといえば、時間が短いから。四十九日や一周忌のような定期的な弔いの儀式も必要とされない。身近な人に死なれた人はただでさえ絶望と疲労を抱えているのに、なぜ沢山の人に頭を下げたり、気を遣わなければならないのかが本当に納得がいかない。キリスト教の式は、そういう点で死者の近しい人々への尊重が感じられて好きなのだ。個人が死と対峙する静かな時間を重んじているように思う。

あと、単純に心が落ち着くからというのもある。キリスト教の聖堂は美しいし、ほっとする雰囲気に包まれている。高校がミッションスクールだったせいもあるかもしれない。もちろんこれは個人的な感覚の問題で、お寺はだめとかそういうことでは全くない。



せっかく自分が喪主を務めるのだから、色々と好きにした。

火葬場の収骨までの待機時間に、控え室で親しくもない親戚とまずい弁当を食べるあの気まずい時間は二度とごめんだったので、控室はあえて取らず各自で外に食べに行ってもらった。お棺の上に飾る大きな遺影も作らなかった。

私は親戚のことが嫌いなので、通夜と葬儀の間中ずっとブスッとしていた。開始前の待ち時間も教会の中に入らず、外のベンチに座って植え込みを眺めていた。絶対に話さないと固く心に決めていた。これも喪主でなかったらできないことだ。「ちょっとくらい挨拶しなさい」と姉に怒られるから。嫌なら嫌で自分だって話さなければいいのにと思うけれど、そういう訳にもいかない人がいるのもわかるから普段は黙ってやられている。でも今回は、私が喪主なのだ!これはすごい。義務と権利の関係を実感した二日間だった。



あまりに私が動かず、ブスッとしているので葬儀屋の人はさぞ心配だったと思う。あれこれ手取り足取り教えてくれて、それはちょっと悪かったなと思っている。



好きな人はいないと思うけれど、私も火葬場の雰囲気が心底苦手で、一連の葬儀の流れでそれが一番怖かった。骨になってさえしまえば、不思議なほど楽になるのも経験的に知っていたけれど、あの場所がとにかく嫌なのだった。

母も先に逝った祖父母たちもみんな焼かれた市の火葬場は鉄の檻みたいで、ひんやりとくぐもった影に包まれているような感じがした。なぜ人の最期が、こんなにも悲惨な場所でなければならないのか、いつも哀しみと怒りで目の前が真っ白になりそうだった。

でも今回久しぶりに行ったら、全然怖くなくなっていた。全体的にリニューアルされたんだと思ったけれど、家族に聞くと別に変わってないと言う。以前より明るく見えたのは、私の精神状態が変わったせいなのだった。

最近本当に死ぬことは終わりではないという気がして、むしろ私たちが生と呼んでいるものが反対に死であるような意識や存在もあるのだと思う。怖いとか嫌だとかは何もなくて、送り出せてよかったな、と達成感みたいなものだけがあった。

でもやっぱり、これがもっと若い人だったら悲しいのだろうな。若い人はやっぱり骨になってしまうまで、もしくはその後でさえも、そこにいるような感じがするのじゃないかな。



さて、ついに収骨。こんなにシュールなことってそうないと思う。

白手袋の担当者がいちいち骨の部位を教えてくれる。焼肉じゃないんだからさ、というツッコミが途中から頭の中から消えなくなってどうしようと思った。喪主だからたくさんのお骨を収めなければならない。おばあちゃんは91歳なだけあって、太い骨はあんまり残ってなかった。よく生きたねえ。


全部納め終わったら、あとはさっぱりしたものでお疲れ様でしたと一言言って解散。

最後に葬儀屋の人に「おかげさまでスムーズに終えられてほっとしてます。ありがとうございました。」とお礼をいったらすごく喜んでいた。車まで余った花を運んでくれて、私たちも、葬儀屋の人も、満面の笑みでニコニコしながら手を振って火葬場を後にした。なんだろうこの連帯感と達成感。葬儀はチームプレーなんだと思った。



みなさんお疲れさまでした。



翌日、朝7時から兄と姉の旦那と三人でスーパー銭湯へ行った。10年ぶりくらいに岩盤浴をして、変な気持ち。昨日まで葬儀だったのに。終わった!という開放感を味わいたくてこんなとこまで来たのに、かえってわからなくなった。でもそのうやむやに自分を癒しているこの感じがたまらなく馬鹿みたいで楽しかった。



帰ってくると一階のトイレが詰まっていて、ザバザバと色々溢れ出していた。

父がズッポンで格闘する音が聞こえてくる。潔癖症の私は一瞬で思考停止してしまい、頭が真っ白のまま駆け足で散歩に出かけた。近所の神社でどうか直りますようにお祈りしていると、姉が追いかけてきて「トイレ直ったよー!」と教えてくれた。あまりの嬉しさに抱きついて、回ったり踊ったりしながらそのまま家に帰った。季節外れの暑い日だった。今こうして書いているとかなり可笑しい。頭が。



恨み嫉み苦しみの過去と現在が渦巻く葬儀では親族も兄弟も親子も揉めたり文句言ったり色々溢れるけれど、よくわからないテンションの中でこそ打ち解け合う一瞬もあるなあと思った。最後にトイレが溢れてみんな口々に「ウンがついてよかったね!」と言ってて全然面白くないオチつけないでくれーと思ったけれど、私もやっぱり言わずにおれなかった。

5月上旬、祖母があの世へ行った。享年91歳。70過ぎでくも膜下出血をやり、一命はとりとめたものの言葉が出なくなりほどなくしてぼけた。しばらく姉が自宅で面倒を見ていたが、ある時こけたか何かで寝たきりになり市の特別養護老人ホームに入ることになった。それから私が会いに行ったのは10数年の間にたった3、4回ほど。最初のうちは私の顔がわかるようだったが、最後の方はもう私の向こうの何かを見ていた。


はっきり言って、祖母への思いには複雑なものがある。私の家は共働きで、両親それぞれが親を田舎から呼び寄せて愛知に3世帯住宅を構えたのだが、それがそもそも地獄の始まりだった。婚姻によって親戚関係となったとはいえ生まれも育ちも異なる他人同士、いきなり同じ家に住み始めて上手く行くはずがない。加えてそれぞれ輪をかけてアクが強い人たちだった。


家族それぞれの話は結構面白いのでまた時を改めて書けたらなと思う。その当時は死ぬほど大変でも、後から振り返ったら笑えてきたりするものだ。笑ってしまいたい、という方がより正しいかもしれない。


ただし、母は実際死んでしまった。50歳のとき、乳がんに侵されて。強烈で騒々しく、時に陰湿な人間関係の絡み合いのなかで、責任感の強い母がどれだけの重荷を背負っていたかは想像に難くない。


我が家の人間模様を語るとそれだけで一冊分くらいになりそうなので、ここでは当時、家に誰が住んでいたかを列挙するに留めよう。

両親、兄、姉、私、父方の祖父母、母方の祖父母、父の弟(本当は父の従兄弟)、母の姉(父親違い)、総勢11人。ここに加えて時期によって従兄弟やおじ夫婦などが住み込んでいたり、パニック障害になった叔母の代わりに赤ん坊を預かっていた時期もあった。なんとなく大変そうな雰囲気だけは、察していただけるのではないかと思う。


この混乱を助長した大きな原因の一つが、孫の取り合い合戦だ。第二子であった姉は、戸籍上は母方の祖父母の養子となり、母方の苗字をつけられた。そのため姉は母方の祖父母に、兄と私は父方の祖父母に可愛がられ、育てられるといういびつな図式ができあがった。母方の祖父母はけっこう平等にかわいがってくれたと思うが、父方の方はそうでもなく、特に祖母は事あるごとに姉を邪険にした。邪険にされる方、えこひいきされる方。知らなくてよかった妬み嫉みを幼少期の全生活において味わった私達兄妹は、それぞれ暗い傷を大人になった今でも抱えている。


今回亡くなったのは、姉を邪険にし、兄と私をえこひいきした祖母である。ちなみに他の祖父母たちは、全員既に他界している。祖母がなんというか、最後の砦だったのだ。

この祖母は生命力が異常に強く、今まで何度も「覚悟してください」と医師に宣告されるも死の淵から這い上がってきて「ばあちゃん並みに不死身」というミームが我が家でできあがるほどだったから今回もそうなるのではと内心思っていたのだが、亡くなる3週間ほど前に様子を見に行ったとき、今回は本当にもう最後だと思った。瞳を覗き込んだ時、もうそこにいないのがわかったのだ。元々ぼけてはいたのだが、いない、と感じたのは初めてだった。その日の夜、祖母が地下へと続く暗い螺旋階段を下っていく夢を見た。あちらへ去ろうとしている命を、無理に引き留めることはしてはいけないのだと理由もなく悟った。

執筆者の写真NOBUSE NOBUYO


あれはカネコアヤノだ。あまりよく知らないが、別にいい。彼女の歌声は力強い。あれはCharaだ。昔からずっと知っていたような知らない曲。忘れてしまっただけなんだと思う。GRASS STAGEの芝生にぼんやり立って、草が生える音をしみじみと聞いている。いつからここにいるのだろう、思い出は湧き立つそばから瞳ににじんで消えていく。わたしはここでいい、と思ってから風の中に綿毛が浮いている。ステージの照明にきつく照らされて、綿毛がほんのり光って消えたりする。どちらかといえば、あっちが私だったような気もする。手首に浮いてくる薄緑色の芽がくすぐったい。


風が吹いている。イントロがさざなみのようにやってきて、わたしとわたしたちの細胞の海が揺れる。突然、皮膚で呼吸する方を選ばなかった時のことを思い出したりして。別にカエルでもよかったんだけどな、と思いながらぴょんぴょん跳ねてみる。なんとも言えない懐かしさが全身を駆け巡り、今からだって遅くはないなと思った。忘れてしまっただけで、なかったことにはならないのだ。


歩いても歩いても、森、道、世界が続いている。

屋台、海風、観覧車、波音、屋台、海風、ステージ、浜辺、屋台、海風、観覧車、海風、歌、叫び、歌、酒、群れ、浜辺、揺れる、さざなみ、見えない、星。呼吸する度に夜が繰り返し繰り返し飛び立ってまた後ろから戻ってくる。これは私の庭先だったっけ。つっかけ履いて飛び出してきたのだったっけ。波打つビールに大きな口元が近づいて決壊する。


引き延ばされた真っ青な夜を誰かがホチキスで繋げたらしい。継ぎ目に透ける虹色のぬらぬらに落ちないように、にんげんはニューロン同士を結び合う。かわいい綿毛に見せかけて、タナトスほとばしる細胞を爪先から頭まで飛ばしまくっている。えげつない夜の帯。


たぶん千年くらいは経ったのじゃないか。

わたしとうとうぼけたと思う。触ったところでちっとも近づいた気はしなくて、やっぱりあっちが本物だと思う。海岸線に立ち並ぶヤシのシルエット。どこにでもあるけれどどこにもないグラフィティなあの南国には辿り着けないままでいい。ひんやりする木肌に背を預けて、どこまでも続いていくヤシの木立その一本一本にわたしがいて、一斉に目を開けては閉じるのを眺めている。


歩いても歩いても、森、道、世界が続いている。

心だけは果てしなく自由なのだとわかった日が確かにはっきりとあって、その日から風は笑わなくなった。ただじっと遠くの方を向いてどこへ行ってきたのか教えてくれもしない。まだ笑っていたころの風ってこんな感じだったのかなと浜辺で大の字になって眠る。歩いても歩かなくても、この世界は終わらない。昨日がなければ明日も来ないのと同じように。


懐かしいのは、全部忘れてしまったから。

終わらないのは、わたしがわたしたちじゃないから。

忘れてしまったのは誰のせいでもない。

歩いても歩いても、森、道、世界はまだ明けない。



(2024年5月24日、26日 「森、道、市場」の記憶から。私がこの日全身で見て、聞いて、味わい、触れた、時間はとても説明できるものではなかったから、日記を書いたつもりでも詩のようなものになりました。)

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