2024.6.18
美術館の回廊で、フェスティバルが行われている。通路に沿って横一列に小さな舞台がいくつか立ち並んでいて、端の方の舞台では流血を伴う非道徳的な儀式がパフォーマンスとして行われるようだった。マシュー・バーニーやレオス・カラックスの作品世界ようなグロテスクな雰囲気。
私たち学生はそれらの舞台のどれか一つにボランティアスタッフとして入らねばならなかったが、もう空いているところは端の方しかないのだった。一番恐ろしそうな舞台だけは避けたいと必死で走って、なんとかその隣の舞台に上がり込んだ。私ともう一人女の学生がいた。
気がついた時にはもう、パフォーマンス終盤だった。それまでに何があったのか全く思い出せない。推察するに、おそらく到着と同時に何かを飲まされて忘我状態になったのだと思われる。私ともう一人の学生は、これまでの記憶も全て失い、歩き方や喋り方も忘れさせられて、その様子を笑いものにされていたようだ。ここは初期化された人間が徐々に自我を取り戻すまでの過程を観せる舞台だった。
舞台の終盤で私たちは司会者に「夕べの朝日」と呼ばれていた。彼らの世界観では、目醒めたばかりの人間=朝日であっていわば神に近い存在であり、徐々に自我を取り戻しつつある私たちはその終わり=夕べにさしかかった神と人とを繋ぐ者であるのだという。そして夜が来る前に私たちは再び忘我状態へと引き戻され、朝日は沈むことがない…という筋書き。実際はもうここで舞台は終わりで、お役御免となった。私たちは無事解放された
忘我状態を私は実際には経験したことがないので夢の中で感じたことが本物かどうかわからないが、なんだか面白い体験だった。意識を取り戻しつつある状態からの記憶しかないのだが、不思議なほどに何もかにもを忘れていた。喋り方も、自分が何者であるかも、歩き方も。ただ静止した目のように周囲を見つめていた。ある意味では、あの時の私は夢の中の意識そのものであるような気がした。
(夢の中で我を忘れるとは、どういうことなのだろう。その間の体験は、目が覚めた私が覚えていないだけで、夢の中では体験していたのだろうか。それとも、目が覚めた私が記憶しているものだけが夢の中の事実なのか。忘れてしまった夢の体験は、この世に実在したといえるのだろうか)
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人と連れ立って、レストランに行く。崖のような立地にいくつものレストランが入っている、自然の造形を活用した複合施設のような場所。
その中のフランス料理店に入る。店内はうねうねと入り組んだ洞窟で、一つ一つのテーブルはゆるやかな個室のようになっている。窓は見当たらないが、どこからか入ってくる自然光のおかげで比較的明るい。沢山の植物が生い茂っている。
席に着くと、私しか座っていない。テーブルが狭すぎて(もしくは壁と私との距離が近すぎて)相手が着席するスペースがないのだ。アンティークのランプや雑貨の古びた匂いに囲まれて、静かな孤独感が襲ってくる。
料理はいつまで経っても運ばれてこない。気がつくと谷底のテーブルに座っていて、見上げると遠くの崖の切れ目から光が差し込んでいる。滝が近いようで、絶え間なく水の音がする。隣に誰かいる。向こうの通路から、すさまじい勢いで巨大な段ボールがクール便でやってきた。「そっか、まだ材料も届いてなかったんだね」と笑いながら何故か安心する。今度はゾウが走ってきて、戦士みたいな人が槍で向かっていく。その人を自分と混同する。私は槍を振りかざす。ゾウの中にはマンボウがいて、今日のメインはマンボウのソテーなのだ。「そりゃマンボウは時間かかるわ」とハラハラしながら見守った。