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食事後、皿洗いをしながら喜びの奇声を発していた私。機嫌が良い時はいつものことなので自分では気にしていなかったけど、姉に「ああ、ビール飲んだもんね」と言われて全く何をけしらからんことを言ってくるんだと思った。


「え、いやあれノンアルだったし」

「いやビールだよ、私が持ってきたんだもん」


そう言われてみれば、アルコールみたいな味がするな〜と終始思いながら飲んでいたのだ。いつも家のノンアルはALL FREEなのに、今日は珍しくアサヒなんだな、こんな味がするんだなくらいに思って麦茶みたいにカプカプ飲んでいた。


不思議なものでノンアルだと思っていたうちは全然酔いが回らず、確かに気分はいいし体の緊張もほぐれているけれど頭は至って明晰なのだった。これはひょっとして最高の状態なのでは…と思うも束の間、ビールだとわかってからすぐ酔いが回ってきた。普段お水を挟みながら飲むので、一度回り出したら早い。


今これを書いている現在は、だいぶフワフワでもうだめだ。いかに酔おうとして普段飲んでいるのかがわかる。器用なものだ。



散歩の途中、雀が道路の傍で死んでいた。そういえば一昨日くらいにも見かけて心の中で手を合わせたのだった。その時雀は死んでもかわいいのだなと思ったが、今日はもっとそう思った。空を飛ぶ生き物の軽やかさについて感じるものがあった。


一昨日見たとき既に、雀の亡骸はほぼ羽根と骨でできていて、吹けば飛んでいってしまいそうなことに驚いた。内臓的な部分はほとんどなく、全体的にほわほわとして、すぐに風化していってしまうのだろうなと思った。こんなに軽いものが、飛んだり跳ねたりしていたんだな。それが今は止まっていて、もう動くことはないんだなと思うと、健気だなと思った。


今日見た時は、ほぼほぼ水分は蒸発していて、本当に羽根と骨だけになっていた。からからに乾き切ったそれは、奇妙に美しかった。雀の魂の姿かたちをくっきりと見た気がした。夕闇迫る道路の傍で、湿った風に羽毛を揺らしている。その小さなかたちから伸びる影の黒さに、全ての言葉が沈黙する。その静けさは、もう何物も触れることができない場所にあると思った。

昨日は午後からずっと歩き通しで、身体中の水分が全部入れ替わったんじゃ無いかと思うくらい汗をかいた。そのせいでからだがほてってしまったのか、疲れてるはずなのに夜なかなか寝つけなかった。外に出ていた日の終わりには身体中に陽が染みてビカビカ光るのだ。


電気を消し布団に潜り込むと瞼の裏でその日起こったことや日頃気にかけていること、ふと目に入ってきた光景などがコラージュのように点滅しては過ぎ去っていく。いきなりに楽しい気持ちがわいてきてよし思い切り笑ってやろうとでんぐり返ししてみたり、悲しくて悲しくて仕方がないことの答えを何気なく開いたタンスの奥に見つけたり、不意に聞こえてきた「そこで開いている花の種はこれからの私が運んでいくんだ」という声にまったく全てが解決したりする。それは眠りと意識の狭間では真実であるに違いないのだが、結局のところこの世のどこにも痕跡を残していない。つまり、起こっていないのである。


そんな風にして、この世のはめをことごとく外した百鬼夜行のデコボコパレードが毎晩私の頭を踏み抜いていく。それは私にとってこの世で一番面白い出し物で、何のためにと言われればそれを見るためにたぶん生きている。もちろんできる限り覚えていたいけど、彼らの存在意義にかかわるからたぶん全部は残していってくれない。だから少しずつ集めてどうにか再現できないかと思っている。


結局どこへ行って、何をして、誰といてもその歓びを超えられないだろうということが、幼い日の私が放った矢が長い弧を描いて胸に刺さったかのように今、手触りのあるものとして理解できる。目を開いていても、閉じていても、ようやく私は生まれた時から暗い洞窟の中に隠してきた夢たちと一緒にいまここにいることができているような気持ちでいる。


最近私は文章を書こうとする度に「明るすぎる」と感じるようになった。はじめそれは照明のことだと思ったのだけど、どれだけ暗い中で書こうとしてもやっぱり明るさが消えないのだった。頭の中が明るすぎるのだ。闇の中で目を凝らしていたいのにどうして光がなければ何も見えないんだろうか。


私の頭の中に社会通念や色んな人の意見があって、その煩さが「明るさ」として感じられているのだろうかと予想してきたけれど、そういうことだけでもないのかもしれない。暗闇にいる必要がなくなったものたちを、これまでそうしてきたからと再び暗い場所に引き戻そうとしているとも考えられないか。百鬼夜行のデコボコパレードとそこから得たインスピレーションを、そんなありふれた二項対立に簡単に象徴してしまうことは容易いが、ひょっとしたらこの「明るさ」を「暗い」と書き換えることだってできるのではないかという閃きに今ちょっと楽しくなってきている。




1ヶ月くらい前から、突然ホラー映画が見れるようになった。

最初に気づいたのは、「笑ゥせぇるすまん」を見ていたとき。以前見た時は数話で気が滅入ってしまい、しばらく落ち込みを引きずってしまうくらいだったのだけど、今回はむしろ癒されている自分がいた。


むかし底抜けに明るい同僚に休みの日は何してるのか、と聞いたところ「部屋を真っ暗くして、笑ゥせぇるすまんとか見てる。そうしないとなんかバランス取れないんだよね、よくわかんないんだけど」って言っていたのが妙に印象に残っていて、たぶん今の私はそれなのだと思う。

この「よくわかんないんだけど」が重要で、この部分を言語化してしまえるうちは人間に悲劇は必要ないんだろうなーと思う。昔はこの部分を全部突き詰めたくてそうしてきたけど、ここ数年はそんな気持ちもわかないくらい疲れてしまって、だめだなあと思う反面、より複雑な感情が理解できるようになった気もしている。笑いながら泣くとか、哀しみながら手放すとか、そういう部類の。


そんなわけで、よくわかんないんだけど、私はホラー映画を必要とする身体にいつの間にかなっていた。

よおしそれじゃあ。キューブリックの「シャイニング」でも見てみるか!と思いついたのが今日。ホラー・サスペンス映画の金字塔として名高いこの作品、一度は見ときたいと思いつつ、長年怖くて手が出せなかったのだ。


結論から言うと、あんまり怖くはなかった。全然自分の中に恐怖が入ってこなかったことに、かえって動揺している。

確かにパロディになっているシーンも多いから、どっちかというと笑えるよと聞いてはいたのだけど、自分はもう少し怖がるだろうと思っていたのだ。一体私はどうしちゃったんだろうか。昔はちょっとでも残酷なシーンを見るだけで血の気が引いて、数日寝込むくらいだったのに。モニターに映し出されていたのはただの映像で、昔のように全身が丸ごと引きずり込まれるような没入感を何も感じなかった。


そういえば最近、金縛りやラップ音にも遭遇しなくなってきたなと思う。怖い思いをしなくて済むならそれに越したことはないけれど、なんだか自分の大切な部分まで鈍感になってしまったような気がして、それはとても困るのだ。

複雑な感情を複雑なまま抱えることと、世界への感受性を失わないこと。この二つを両立させることが、難しいことだなんて思わなかった。豊かである一方で、硬直しつつある心の部分があるなんて。


しばらくホラー映画修行、必要なのかもしれない。




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